第八日目 アテネ泊

パトラを9時ごろに出発。サロニコス湾とコリンティアコス湾をつなぐために、地峡の丘を掘って作られた断崖絶壁のコリントス運河を訪ねる。連れ合いが子供の頃に本で読んで、いつか行ってみたいと思っていた場所である。運河を渡る橋の上から下を覗くとはるか下方にコバルトブルーの水が見える。水路の先は海へと続く。

それから一路、アテネへ。今回の旅の目的はアテネに1年間の期間限定でアテネに住んでいる友人のまりちゃんを訪ねること。ギリシャ人の運転のマナーも例に違わず、お世辞にもよいとは言えない。ハラハラ、ドキドキしながら宿の近く、ものすごい急斜面の路上に駐車して無事にチェックイン。荷物を置いて早速まりちゃんとその家族に会いに行った。無事、再会!

宿はアテネ中心地からバスで北に40分ほどのキプセリ地区。今の時期、観光客はほとんど見かけない。夕食は近くのレストランでドルマーデス(米やひき肉をブドウの葉で包んで煮たもの)、タラモ、トマトとピーマンに米などを詰めたもの、茹でたダンデュロイン(たんぽぽ。本当に?)を頼んだ。小皿料理だと思ったが、けっこうな量。次回からお持ち帰り用のタッパを持参しよう。

写真は上から

コリントス運河に行く途中に寄った漁村の風景

コリントス運河

夕食はこれ!

第7日目 パトラ泊

カフェの隅っこで寝ていたが、寒くなってきたので夜中に船の中程にあったソファに移動。朝までぐっすりと眠った。誰もソファにいなかったなんてラッキー! と思っていたら、「ここでは横にならないでください」という注意書きが壁にあったことに、起きてから気がついた。

気持ちの良い快晴。空気は明らかに暖かい。船の中はギリシャの時間でポルトガルよりも2時間進んでいる。フェリーは20時、ほぼ定刻に到着。パトラの街中を通り抜けて郊外にあるホテルに到着した。

 

閑散とした夕方のカフェ。パトラ着岸直前。

 

第6日目 船中泊

宿の朝食は数キロ先の村にあるパン屋兼カフェテリア。着いてびっくり、田舎のパン屋なのに、様々なパンやケーキやお菓子が綺麗にショーケースに並べられている。こんなに品揃えがよくて、しかもセンスのいいお店は滅多にない。

フェリーの出発は20時半。2時間前にチェックインを済ませておけば良い。時間は十分にあるので途中、アッシシに寄る。動物に慕われた聖人として有名な聖フランシスコ生誕の地である。観光シーズンでもないのに、駐車場には観光バスが目白押し、街中は観光客(巡礼?)で溢れていた。観光のピークシーズン、地元の人たちは大変だろうなあ。

アッシシから北に向かい、山を越えてアンコラに向かう。アッシシは快晴だったのに、山に入ると曇り空。アンコラに到着した時には霧雨で、まだ早いのに随分と暗くなっていた。途中、食料の買い出しにショッピングセンターに寄ろうかと思っていたが、アンコラ周辺にはない?! やっと見つけた街中のスーパーで買い出しを済ませる。ショッピングセンターのせいで、地元の商店街が衰退するのはわかっている。ないのはいいことだが、ちょっと焦った。

このフェリーでは船室は予約しなかった。最初のフェリーの船室は一室最大4名で50ユーロ。このフェリーは一室300ユーロと高かった。

第5日目 カステル・サン・ジオバニ泊

眠ったのか眠れなかったのかわからない一晩だった。10時半のチェックアウトに合わせて目覚ましは10時にセットしておいたけれど8時半には目が覚めてしまった。

宿を出発して最初の村のカフェで朝食。コーヒーの注文でつまづいた。イタリア語で何と言ったっけ? ポルトガルではメイア・ド・レイテ(ミルクコーヒー)をよく注文する。スペインで、それはカフェ・コン・レイチェだ。同様にイタリアでカフェ・コン・ラッテを頼んだら、エスプレッソのコーヒーにミルクが少し入ったものが出てきた。ポルトガルだとエスプレッソにミルクを数滴垂らしたこれはカフェ・ピンガ。

連れ合いはポルトガルでいうアバタナード(日本の「ホット」)を頼もうとしていた。スペインでカフェ・セン・レイテを頼んだら、「カフェ・ソロ?」と聞かれた。そうだというと想像していた「ホット」ではなくてエスプレッソが出てきた。ポルトガルでは「カフェ」を注文すればエスプレッソが出てくる。スペインとイタリアではアメリカーノが「ホット」だった。う〜ん。

宿があるイタリアの小さくて静かな田舎の村カステル・サン・ジオバニにはチェックインにはまだ早い昼過ぎに到着。村の中心に城壁があり、城壁の中にも民家がある。宿も城壁の中だ。車もあまり来ない村の路上の暖かい日差しの中で、猫たちがのんびりと日光浴をしている。

第4日 チビタベッチア泊

昨晩は疲れていたせいかぐっすり眠った。出発が遅かったので、寝たのも2時をまわっていた。まだ暗いうちに一度目が目が覚めると、窓には雨が叩きつけ、頭上に稲光が落ちた。

寝坊するだろうと思ったけれど、明るくなると目が覚めた。船室でヨーグルトとフルーツの朝食。昼は昨日買い込んだサラダ。今日一日、真夜中にチビタベッチアに到着するまで、船の中でやることはほとんどない。この船はサルディーニャ島に立ち寄ってから最終目的地に行く。サルディーニャでの荷物の積み下ろしには順調に見えた。が、真夜中に到着するはずが遅れに遅れて、チビタベッチアに接岸したのが翌8日の早朝3時15分。宿に着いた頃には、早起きの鳥たちがさえずり始めていた。

写真は上から
船尾
サルディーニャで着岸
やっとチビタベッチアに到着した!

 

第3日目 船中泊

ザラゴザからバルセロナへ。今日はこれからの旅に備えた準備をしなければならない。ポルトガルでは手に入らなかった雪道用のチェーンの購入である。

バルカン半島諸国では、11月から雪道対策をしなければならない。スノータイヤは必需品。最も厳しいのがボスニア・ヘルツェゴビナ。スノータイヤ以外にチェーンと10キロだか25キロだかの砂の携帯が義務付けられている。スノータイヤに関しては、すでにポルトガルで雪道でも使えるタイヤに交換した。チェーンはポルトガルでも探したが、簡単には入手できそうもなかったので。バルセロナのショッピングセンターで買うことにしていた。砂はウチの庭で野晒しになっていたものを5リットルの飲料水のペットボトルに詰めて車に積んだ。

スペインのバレンシア地方では10月29日、観測史上前例のない集中豪雨が発生し、土石流によって200人以上が犠牲になるという災害があった。8時間の間に1年分の雨が降ったのに、洪水が発生してから集中豪雨警報が発出されたため、逃げ遅れた人が土石流に呑まれて被害が拡大、大惨事となった。交通が寸断され救出作業は進まず、支援物資も届かず、水が引いた後の復旧作業(泥のかき出し)で地元民は疲労困狽。政府は何もしてくれない、自分たちは見捨てられたという絶望感が広がっていた。

第2日目 ザラゴザ泊

観光シーズンが過ぎたスペインには日常の顔が戻っている。宿の近くのカフェでクロワッサンとカフェ・コン・レイテの朝食後、ザラゴザへ向けて出発。紅葉の美しいドゥエロ川を何度かわたる。途中、ベルランガ・デ・ドゥエロ(Berlanga de Duero)に立ち寄った。今では遺跡となった城や宮殿がある。何世紀にもわたって歴史の波にもまれてきた町である。

長い間、ザラゴザを再訪したいと思っていた。1986年、8月のある暑い夏の日に母とヨーロッパを旅行していた私は多分列車で到着した。バスではなかったと思う。街についてからガイドブックを見ながら照りつける太陽の下、何軒かの安宿で値段を聞いて回った。付き合わされた母は、かなり機嫌が悪かった。

この頃、母の中で海外旅行といえばゴージャスなパッケージツアー。宿泊はいいホテルで、荷物は誰かが運んでくれる。毎日おしゃれな洋服や着物を着て、いいレストランで食事して、バスで名所を訪れて、記念写真を撮る。お友達や家族にたくさんお土産を買って帰国して、旅の話をすればみんなに羨ましがられる、と想像していただろうと思う。

第一日目 アランダ・デ・ドゥエロ泊

久しぶりの長期旅行を何となく考えていた。スペインはバルセロナからイタリアのチビタベッチア(Civitavecchia)まで、イタリア半島を横切って反対側のアンコナからギリシャのパトラまでカーフェリーを利用してアテネへ。ギリシャを周り、バルカン半島諸国、イタリア、フランス、スペインを通ってポルトガルへ帰ってくる約一ヶ月のロードトリップである。

夏の終わり頃から真剣に考え始めたが、9月半ばに車が故障。これではロードトリップは無理かもしれないと一時は諦めかけた。車がダメならば、バックパックで公共交通機関を使っての旅行でもいいかも、とも考えた。65歳(!)になるとポルトガルでは列車料金が半額になる。欧州諸国でも割引がありそうなので、交通費は安く上がりそうだ。それに、途中で車が故障する心配する必要もない。それでも車の利便性は捨て難い。私はこれまで、車での長期旅行をやったことがない。運良く、出発の10日前ほどになって車の修理が完了、これならば大丈夫そうだということになった。

そして今日、第一日目。

どうする、どうする、となりのキンタ(農地)?

ウチに隣接して小川まで続いている急斜面の土地が手に入れば、当分の間は水不足を心配しなくてもよくなる、と何年も考えていた。下草ぼうぼうで放置されているその土地は、森林火災の時期には大きな脅威となる。自分たちの土地ならば、思うように手入れもできるのに、と毎年、森林火災の時期になると不安になったが、持ち主が特定できずにいつしか忘れていた。

持ち主が特定できなかったのには訳がある。言葉の壁もあるが、この辺りでは(あるいはポルトガルの地方では?)、いとこ同士の結婚が多い。集落や村では誰も彼もが「従兄弟もしくは従姉妹」。しかも日本と違って、同じ名前の人ばかり(注)なのだ。「私の従姉妹のマリアが...」と言われても、みんなマリアなので(ポルトガル人はわかるようだが)どのマリアだかわからない(ちなみに隣のアリスはマリア・アリス。8人の妹がいたがみんな、マリア・ローザ、マリア・マニュエラ、マリア・グロリア...だった)。たとえ持ち主がはっきりしても、売る気がないかもしれないし、ガイジン=金持ち(ATM)と思われて法外な値段をふっかけられて不快な思いをしたくもなかった。

スペインで車が故障! その後

故障した車が積載車に載せられてスペインからポルトガルに移動させられ、国境の修理工場に搬送されて二週間が経つ。その間、車は一時、行方不明になっていた。

経過を整理してみよう。

9月12日 車がスペインで動かなくなって、積載車でビラール・フォルモサの修理工場に移送される。私たちは保険会社が準備したレンタカーで帰宅。16日には最寄り町の指定修理工場に車が搬送されるという話だった。

9月16日 15日に発生した大規模森林火災で、あちこちの道路が通行禁止に。それが理由かどうかはわからないが、車はビラール・フォルモサの修理工場をまだ出発していない様子だった。こちらも森林火災で忙しくて、確認する暇はなかった。

9月20日 森林火災が落ち着いてから連れ合いが保険会社に連絡すると、20日中には到着するという返事だったが、どこに行ったのか不明。

9月23日 もしかすると保険会社がウチの車を紛失した? 私はどこかで盗まれて今頃モロッコあたりに密輸されているのではないかと心配になってきた。保険会社からは、修理は全て終わっているので、評価してもらいたいと言うメールが連れ合いのところに届いた。再度問い合わせると、確かに車は最寄り町まできてはいるようだが、どこに行ったかわからない。

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